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松原遊廓

※松原遊廓については昭和5年発行の「全国遊廓案内」に記載がなく、「三次町の歴史と民族(1980年)」を引用しました。
※「三次町の歴史と民族」には「松原遊廓(別名 松原団子)」として記載されています。「松原遊廓(別名 松原団子)」についての記載が非常に長いので、大まかに抜粋してみました。
※三次の町はその昔から、陸路・河川による交通の要衝であり、旅行者の休養、宿泊の宿場町として栄えたところで、おそらく全国の宿場町にいた「飯盛女」と同様の形態が遊廓の始まりのようです。
※太字が「三次町の歴史と民族」からの引用部分です。

松原遊廓(別名 松原団子)
松原遊廓の始まりは明らかではないが、天保十五年(1844)七月に、三次町下女奉公の者の風俗を戒めて次のような達しがなされている。
「下女ら夜分になれば主家の勤めをせずに勝手に煮売屋(現在の飲食店)等へ出入りして酌給仕をしたり、みだらなことをしている。主人よりよく申し聞かし注意するように、煮売屋などへ酌女を引き入れてはならないと言っておいたのに、今度は下女らがこのようなことだ。かねがね言い達して置いたようにこのようなことのないよう固く守るように。・・・中略・・・殊更当局では他の町と違い一廓建置きをしてある。・・・後略」
とあることから、相当以前からあったものと思われる。
松原団子の名も煮売屋等で酌女が転ぶ(男と寝ること)ことから呼ばれるようになったと云われる。

これが昭和三十一年売春防止法が施行せられるまで存続していたものである。

松原遊廓には、その盛時(大正十二年頃)置屋が二十二軒、それに所属する芸者八十名・立子(芸者見習半玉)約十名・舞子約十名、料理屋(楼・廓)が松原地区へ五十軒・旭町地区へ十五軒、それに所属する酌婦(私娼・二枚看板とも呼ぶ)約百三十名(旭町の料理屋へは居らず松原より呼ばれていた)を数え、また飲食店も数軒あった。

遊廓の客の約六割は旅人であり、残り四割が近郊在住の男性であったという。これだけ多くの女がいるのに、お茶を引く女(一日に一人も客がないこと)は殆んどなく、多い女は一日に二人、三人と客をとったという。その繁栄の様子は、毎日昼から二階で三味の音や客の賑わいがしていたことから察せられる。
ここで働く女性は地元の女性はなく、遠隔の地(主に九州・四国地方)のものが多かったという。

券番(見番)は旭町現森脇旅館の横にあった。
※「森脇旅館」を調べましたが、もう無いようです。もし「森脇旅館」についてご存知の方がいれば、コメント欄で教えてください。お願いします。

松原料理屋組合事務所は、現松原松屋旅館裏にあった。
人力車置き場は、現松原松屋旅館横にあった。

※「松原松屋旅館」を調べましたが、もう無いようです。もし「松原松屋旅館」についてご存知の方がいれば、コメント欄で教えてください。お願いします。

大正十四年頃、松原全体で、京都伏見稲荷神社より稲荷さんを勧請し稲荷社を建立して祭った。それ以降地域の者は、商売繁盛を祈願し信仰している。

松原遊廓の地図

広島県三次市三次町
※松原遊廓は、旧大正町から旭町にかけてあったそうです。現在は総じて三次町となっています。



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