稲佐遊廓 長崎県長崎市曙町|全国遊廓赤線マップ 散策動画とブログデータベース



稲佐遊廓

※1930年(昭和5年)発行の「全国遊郭案内」より

長崎市稲佐遊廓
長崎市稲佐遊廓は長崎縣長崎市稲佐町にあつて鐵道は門司長崎線、長崎驛下車、西北へ約十五丁位の處にある。市内電車稲佐橋通停留所で下車する。
長崎市は古い開港場として有名である事は既に説いたが茲の遊廓は明治三十九年に初めて許可となつて今日に及んだものである。妓樓數は十四軒、娼妓約百拾五人位居り、居稼ぎ制で送り込み制ではない。その中二軒は寫眞制、十二軒は陰店制である。特に時間遊びはなく夕五時から暁六時迄と、八時から午後五時迄の仕切があって、平均四圓位である。外に遊興五十錢増である。藝妓も呼べる平均二時間玉代二圓が普通である。附近には観音崎の名勝がある。
妓樓は、遊喜接、吉田屋、港樓、小櫻樓、都樓、二見、勝遊楽、千年棲、明月、見好樓、玉姫樓、龜鶴樓、鶴家、大笑樓、等がある。

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ロシアとの親密関係
明治以降は、三菱重工業(株)長崎造船所の発展と共に住宅地として栄えていった稲佐エリアだが、一方、冬期の長崎港はウラジオストックを母港とするロシア極東艦隊の越冬地となっていて、稲佐に多くのロシア兵が上陸するようになった。それは、17世紀半ば、幕府は正式な交易相手をオランダに限定し、近隣のロシアの上陸は長く拒んできたが、嘉永6年(1853)、ロシア使節プチャーチン来航の際、初めて上陸を許された。それでもまだ、できることなら彼らを長崎の中心地に迎え入れたくはなかった日本側は、港を隔てた漁村の稲佐を上陸地に指定。はじめは寺院などが臨時の宿泊所となっていたが、しだいに受け入れ場所が増え、極東に不凍港を求めるロシア艦隊の「稲佐ロシア人休息地」、通称「ロシアマタロス休憩所」となった。乗組員は稲佐で休息をとり、艦隊は物資を補給。稲佐悟真寺国際墓地の南側には、ロシア兵の射的場もでき、これは明治36年頃まで続いた。
 また、万延元年(1860)に弁天町の上部から、曙町の稲佐岳登山道路入口という碑がある付近に置かれた「稲佐遊郭」も、当初ロシア艦隊の乗組員向けにつくられたものだった。安政4年(1857)に長崎入りしたオランダ海軍医ポンペは公娼制度の廃止と検梅制度を提案したが、幕府が拒否。万延元年(1860)に来日したロシア海軍提督ピリレフの要請により、稲佐遊郭において日本で初めて検梅が行われた。昭和33年(1958)の売春防止法施行まで続いた稲佐遊郭は、大正14年(1925)当時、貸座敷は19軒、娼妓の数は154名にものぼったそうだ。
長崎商工会議所ホームページより

※上記の「曙町の稲佐岳登山道路入口という碑がある付近に置かれた稲佐遊郭」はこの辺り
Googleストリートビュー

稲佐岳登山道路入口碑から約100mほど先の道路脇に妓楼然とした建物あり

稲佐遊廓の地図



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